命について思い出したこと
福島県の西会津に「ダーナヴィレッジ」という施設がある。ここは「すべてのいのちが響き合う世界をつくる」ことをテーマにしたエコビレッジだという。エコビレッジとは何ぞやというと、自然環境になるべく負荷の少ない、それでいて人間らしく豊かに在れる暮らしを模索する共同体(コミュニティ)のこと。人によって定義は多少異なる。
とある経緯で私はこの施設の存在を知り、5月はじめに実際に現地まで足を運んだ。その経緯を雑に書いてみると、こうなる。
医学部5年の地域医療実習で、とあるパン屋のオーナー(3児のママ)と出会う。彼女の思想と雰囲気に惹かれ、いろいろと話を聞く。どうやらインドが大好きで10回以上は行ったことがあると。もともと私もインドという国に興味があった。そこで彼女から南インドの「オーロヴィル」という場所を勧められる。ここは国際的なエコビレッジであり、数十カ国の人たちが集まり、自然と人間が共生する持続可能な暮らしをするための実験都市なんだと。そんな場所が本当にあるのかと思う。その概念を頭の片隅に寝かせる。とある医療系のワークショップにて、先輩医師や後輩の医学生たちからインド旅を強く後押しされる形となり、春休みに1人でインドへ渡る。1週間ほどオーロヴィルに滞在。ここでの話は省く。さて帰国後に調べてみると、このオーロヴィルから着想を得て、日本でも同様のエコビレッジを創設した人がいることを知る。その場所こそがダーナヴィレッジであり、創設者は小川美農里さんという女性。何者なのかと思うと、なんと彼女は看護師らしい。ますます関心が深まり、いつか行ってみたいなあという望みを頭の片隅に寝かせて、気が付けば大学の卒業試験が終わり、就職先が決まり、大山場の医師国家試験が終わり、無事に医師免許を取得。余裕が出てきたところで、ふと存在を思い出す。日本国内とはいえ福島県、さらに福島の中でもかなり山奥にあるそうな。なかなかハードル高いなと感じつつ、今行くしかないと思い立ち、ゴールデンウィークの設立10年記念祭に申し込んだ。興味ありそうな友達を誘い、東京から夜行バスと電車とタクシーで乗り継ぎ、ついに現地に到着。2泊3日のダーナヴィレッジ滞在。刺激的であたたかかく濃密な体験。ここでは書き切れないほどの体感と気付きがあった。
そして最近、このダーナヴィレッジが現在に至るまでに歩んできたプロセスをまとめた「エコビレッジー農でケアするコミュニティー」という本が出版された。著者であり設立者である小川美農里さんとは、もちろん現地で交流させてもらい、その後も別のイベントでお会いしたり、さらには同様の思想に共鳴する類稀なる医師を紹介いただいた。私自身もこのコミュニティが目指す未来の世界に強く共感した。
この本を読んでみて、今まで自分が無意識のうちに触れてきたもの、体験してきたことにまた新しい意味が付与されたように思う。
本書のなかで特に印象的だったのは、彼女が通っていた三重県の愛農高校で、彼女自身が何度も鶏を屠殺した話。以下本書より引用。
そこで初めて、鶏の解体を自分の手で経験しました。しかも1度ではなく何度も。その日にしめる鶏のいのちをこの手で選び、殺めるたびに、
「他のいのちを奪わないと生きられない私は、どんな価値があって生きていけるんだろう」
「そんな私がこの先も生き続けるとしたら、どんな意味を持っているんだろう」
正解のない問いで胸はぎゅっと締め付けられ、頭の中ではぐるぐるとそんなことばかり考えていました。
小川美農里「エコビレッジー農でケアするコミュニティー」(農文協、2026年、58ページ)
これを読んで真っ先に想起したのは、私自身が6年前に京都の山奥で自給自足を営む施設(宿泊・レストラン・自然体験など)で2週間ほどインターンしたときのこと。
現地に到着して早々、施設のオーナーから「ほれ、鶏の首がここだから、この(包丁の)角のところでやってみるか?」と聞かれた。目の前には紐で両脚を縛られた鶏が、物干し竿くらいの太さをした木枝に吊り下げられていた。あまりに突然で「ん?」と内心戸惑ったが、あまり考えず興味本位で「はい」と言った。やるしかない。というかそれを求めて自分はここに来たんじゃないか。
頸動脈をぐいっとやると、ぼたぼたと赤黒い液体が漏れ出てきた。はじめは文字通り「必死」に騒いで血潮が飛び散ったが、しだいにおとなしくなった。死んだと分かった。びくりとも動かない物体を熱湯に浸して、無心で羽根という羽根をもぎ取った。するとパーティでよく見る七面鳥の方をした、あのさっぱり小綺麗な丸裸の姿が現れた。自分がやらせてもらった工程はここまでで、その後それがどう捌かれたのは正直あまり覚えていない。ただ6年経っても思い出せるのだから、相当に強烈かつ重要な体験だったに違いない。当時の自分は今より心も身体も鈍いところがあり、この自分の手で鶏を殺したことに特別な感覚を抱かなかったし、彼女のように真摯に自問しなかった。でも今振り返るとこれはものすごい体験だと思う。
というのは、私自身がこと人間においては他の何よりも尊いとされる生命を、人間以外の生き物においては平然と淡々と奪い、にもかかわらず今まさに生かされている、生きてしまっているという事実、そのことである。こんなに都合のいい話を神は見過ごすだろうか。いや絶対そんなわけなくて。とか思いながら、目の前の世界を見てみると、人間ってアホで愚かで幸せで、もはや笑うしかない。その対象がまさしく自分なのだ。病院で人間の生死を見ていると、なおさら命ってなんだかなあ、なんだろなあと思う。「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」ともつながる話。またの機会に。