3/5 AI remake


3/5

潮風と揺り椅子、あるいは彼女の饒舌について

伊豆大島での滞在も四日目を迎えていた。

空は低く、どんよりとした雲が島を覆っている。釈然としない天候のせいか、私の心もどこか定まらないまま、街外れの古風な喫茶店に逃げ込んでいた。

昨日に引き続き、彼女はそこにいた。

小柄で、飾り気のない質素な顔立ち。年齢は私と同じか、少し上だろうか。彼女は緑色の表紙の本を傍らに置き、黙々とカレーを口に運んでいた。昨日、広いソファ席で本を耽読していた私の姿を、彼女も覚えていただろうか。今日の私はといえば、別の席で揺り椅子に身を任せ、前後にゆらゆらと揺られながら、やはり気の向くままにページをめくっていた。

運命の歯車が回ったのは、私が中座してトイレから戻った時だった。

「このお兄さん、毎日ずっとここで本を読んでるんですよ。朝から七時間くらいね。大島に来て、今日で何日目でしたっけ」

店主が、まるで親しい親戚を紹介するかのような口調で彼女に話しかけていた。

「ええ、たぶん四日目だと思います。(七時間はいくら何でも盛りすぎだ)」

苦笑いしながら答えると、図らずもそこに私と店主、そして彼女の三人が織りなす小さな輪ができた。

そこへ、重厚な扉が「ギギギ」と悲鳴を上げて開く。

入ってきたのは、いかつい体格の、小太りな老人だった。彼は慣れた足取りで席に着くと、迷いなくモーニングを注文した。近所の寿司屋の大将であり、この店の主(ぬし)でもあるという。大将の豪放な空気が加わり、空間はさらに密度を増した。

大将は、若い私たち二人を交互に眺め、ふっと思い出したように語り始めた。

「……昔、俺の助言を聞かずに女へのアタックを止めた男がいてな。七十五になった今でも、そいつは独りで寂しそうにしてる。いいか、今いっとかないと、後で『あの大将の言う通りにしときゃよかった』なんてことになるぞ」

見かけによらず落ち着いた、それでいて妙に説得力のある声だった。

「お似合いだよ、あんたたち。どこか顔立ちも似てる」

それは、熟練の職人が放つ本心なのか、あるいは退屈な午後の気まぐれな出まかせか。

「まあ、そういうもんですよね。ははは……。じゃあ、どこか行きますか」

口をついて出た私の誘いに、彼女は一瞬だけ戸惑いを見せたが、すぐに柔らかく微笑んで頷いた。

東京なら行き先は無限にあるが、ここは伊豆諸島だ。車を持たないペーパードライバーの私と無免許の彼女に残された選択肢は、三原山か動植物園の二択。霧の深い今日、三原山は賢明ではない。

「動植物園の一択ですね」
「私、まだ行ってないんです。ちょうどよかった」

ゼロから何かを決める煩わしさがないことは、見知らぬ者同士が歩き出すには、むしろ福音のように思えた。

バスに揺られ、緊張の糸が解けた瞬間、彼女の「静」の皮が剥がれ落ちた。

「ねえ、さっきの喫茶店のサラダ、かなり攻めてなかった? オレンジと桃とパイナップル、おまけにサクランボだよ。令和のこの時代に、マジでないじゃん」

彼女の口から、言葉という言葉が溢れ出す。

「あれ、酢豚にパイナップル派の人はどう思うんだろう。出す方に相当な勇気が要ると思うんだけど。どう思う?」
「全然気にならなかったな。先に果物だけ食べて、後からドレッシングをかければ解決じゃない?」
「ああ、まあ、たしかに……」
「あれ、『フルーツトウフサラダ』っていう名前なんだよ。そういう食べ物なんだよ、そもそも」

彼女の思考は、まるで高速で回転するプロペラのようだった。パートナーには好奇心が必要だという持論から、詰め込み教育の是非、村田沙耶香の小説の特異性、スペインへの憧憬。恋愛、結婚、旅、教育。彼女の語る言葉の解像度は驚くほど高く、その独白を録音しておくだけで、質の高いラジオ番組が成立しそうだった。

かと思えば、「子供の名前は『あーちゃん』と呼びたいから『あ』から始まる名前にしたい」だの、「夏のエジプトは暑くないからポジ、雨はネガだけど花粉を落とすからポジ」だの、唐突に強烈な「感性の命題」を投げつけてくる。その緩急が、たまらなく面白かった。そんな彼女は慶應を卒業後、組織に属さず小さな会社を経営して生き延びてきたという。

「来年までには結婚して、子育てがしたいんだよね」

そう語る彼女は、東京に着いたらマッチングアプリで知り合った男性と焼き鳥を食べる予定だという。現実的で、逞しく、どこか浮世離れしている。

帰りの船の五時間、私たちは和室の雑魚寝スペースで、ぼんやりと横になった。黙って本を読み、自販機で買ったビスケットサンドを半分こしてかじり、また雑談に興じる。船体は絶えずぐらぐらと揺れ続けていたが、それが心地よいリズムとなって私たちの距離を曖昧にしていった。

別れ際、彼女から一冊の本を譲り受けた。『お金信仰さようなら』。

「表紙のデザインはいいんだけど、中身はまあ普通だよ」と彼女は笑った。

「寂しいね」

「また近いうちに会って遊ぼうね」

「あの大将には感謝だね」

「そうだね」

恵比寿駅のホームに降り立つ彼女の背中に、私は手を振った。

旅の醍醐味とは、こういうことなのだろう。名前も知らぬ誰かと、波に揺られながら、言葉を尽くして時間を共有すること。

帰宅してもなお、私の体には船の揺れが残っていた。けれどそれは、荒々しい波の揺れとも、喫茶店の揺り椅子の揺れとも違う。

もっとあたたかく、胸の奥で弾むような、しなやかな揺らぎだった。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です