伊豆大島滞在記1
都会が足し算の味付けなら、離島は素材の味を活かす。網膜に入ってくる情報が少ないから、そこにある事物そのものに触れやすい。あるがままの現実を楽しめる。その奥に広がる宇宙へと旅できる。それが離島という場所。
素材が活かされているものは、ほんとうに心地よい。水の波紋のように、その快楽はおだやかに、長く響きわたる。もちろんファストフードだって美味い。あの脳を溶かすような快楽も、それはそれでたまらない。深夜のポテチと有機野菜に優劣はない。どちらもなくてはならない。
ただファストフードには深みがない。自然や人の存在を感じない。だからすぐ飽きる。飽きたら次、飽きたら次の繰り返し。これは退屈。自分はぜんぜん飽きのこない人生を送りたい。シンプルにそう思うと、世界をじっと観察することで得られる快楽、精進料理を味わうような充足感、あの宇宙に向かわざるを得ない。より本来的な豊かさとは何か。この問いと向き合うのに、伊豆大島という離島は適していた。
自然。これは本当に飽きない。海はずっと見ていられるし、鳥の声はずっと聞いていられる。風で流れ動く雲の切れ端。天候によって変わる空気の質感。こんなに素晴らしいコンテンツは他にない。ふらっと散歩するだけで楽しい。不動のナンバーワン。これを超えるコンテンツを、たぶん人間はつくれない。
ちなみに伊豆大島のホトトギスの鳴き声は「ホーホケキョ」というより「血気胸(ケッキキョー)」だったし、サクラはおしべが触手のように無造作に生えていて、あまりに気色悪かった。ぼんやり海を眺めた奥に漂う地平線は、その境界付近だけは藍染のように、強く淡い紺色で塗り上げられていた。
人間。これも面白い。5日間の滞在中、毎朝とある喫茶店に通った。その喫茶店の雰囲気があまりに心地良くて「毎朝ここに来ないと、1日始まった気がしない」という感覚に陥った。そこで客の話をぼんやりと聞いていた。日帰り観光の女性2人組、外国人のサーファー、港近くの寿司屋の店主、島の看護師、常連のおじいちゃん、宿泊のカップル、島民の若年夫婦。喫茶の店主は間を読んで客に話しかけるタイプで、それで客のさらなる情報が入ってきて一段と面白かった。そればかりでも疲れるので、ときどき本を開いて現実と距離を置いた。
みなそれぞれに固有の物語があり、時間が経てばそれぞれの方向へと旅立っていく。どこからか来ては、どこかへと向かっていく。独立した一回の出来事が連続する。たぶん自分はこれを観測したくて、ここの喫茶店に何度も訪れた。何のためかは、分からない。オチがあるわけでもない。意味付けされていない真っ白な現象が立ち現れる。ただそれを味わうことが楽しかった。そしてまた自分も、偶然この喫茶を訪れ、次の目的地を定めて立ち去る。過去と未来の両端をぐんと引き延ばして、無限大まで持っていく。その運動に終わりはないが、ただその線上のある一点に現在がプロットされ、絶えずそれは点を打ち続け、更新される。自分の今のこの肉体も思考も、このほんの一点にすぎない。
店主はいろんな話を聞かせてくれた。今ある介護施設が八王子に移転するとか、店主の弟が歌舞伎をしているだとか、店主自身も限られた材料で作品(コーヒーのシミを自由に貼り付けた、ロールシャッハテストみたいなやつが集積したもの)を創っているとか、手が痺れてきて薬飲んだら目が回って仕事できないからもうやめたとか、ここの温泉はサウナあるし安くてオススメだとか、島の黒歴史いろいろあるけど下の世代はそれを知っておく必要があるとか。しまいには「さっきカビたジャムのね、カビてない部分すくい取って食べたんだけど、人体実験としてね、これ大丈夫ですかね」と聞かれた。いや何やってんねん。「まあ店主のカラダなら大丈夫じゃないですか」と適当に答えると、店主は「ははは」と笑みをこぼした。
いや可愛いかよ。また会いに行こう。