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身体性・言語・物語・技術—ある対話の記録

※ 本文作成にClaudeを使用

人はなぜ子供を作るのか。伊藤計劃はそう問いかけた。コストパフォーマンスの問題ではない。人は死ぬから、自らを残そうとする。しかしその「残す」とは何か。子の肉体に宿る遺伝子は目に見えない。そこにあるのは記憶、共に過ごした時間、性向や仕草——つまり物語だ。人間は物語としてしか子に自らを遺すことができない。なぜなら、人間は物語でできているからだ。この問いを起点に、ひとつの対話が始まった。

身体性という条件

AIは本当の意味で人間に代替できるのか。その問いに答えるには、まず別の問いを立てなければならない。痛みとは何か。

痛みは単なる情報ではない。世界に晒されているという実存的な事実そのものだ。メルロ=ポンティが言ったように、人間の認識はそもそも身体を通じた世界との関わりの中にある。AIにはその身体がない。どれだけ言語を精緻に扱えるようになっても、それは痛みを知っている者の言葉の模倣に過ぎない。人間は「世界から傷つけられた記憶」を物語として紡ぐ。その根っこには、身体が世界に晒されてきた歴史がある。AIにはその根っこがない。AIが紡ぐのは、そうした物語を大量に学習した結果としてのパターンであって、物語そのものではないかもしれない。

ただ、ここで伊藤計劃自身のことを考えずにはいられない。病によって身体が壊れていく中でこのエッセイを書いた。痛みに最も深く晒されていた人間が最後に賭けたのは言葉だった。身体を持ちながら、それでも言語という媒体を選んだのはなぜか。

言葉と継承

言葉が最も継承されやすい媒体だから——そう考えれば筋が通る。身体は死とともに消えるけれど、言葉は複製され、伝播し、時代を越える。しかしそうすると別の問いが生まれる。言葉が継承の手段だとすれば、AIもその手段として機能できるかもしれない。でもAIが紡ぐ言葉には、継承すべき身体の経験がそもそもない。AIは根のない言葉を流通させる装置に過ぎないのかもしれない。

ところがここで重要な問いが立てられた。根のある言葉か根のない言葉かを判断するのは人間であって、その判別がつく者は限られている——とすれば、根のない言葉であっても、受け取る側がそれを根のあるものとして受け取れば、機能としては同じになってしまうのではないか。

これは問いの構造を根本から変える指摘だった。問題は言葉の質ではなく、受け取る側のリテラシーに移ってくる。そしてそのリテラシー自体も、身体的な経験の蓄積から来るとすれば——痛みを知っている人間だけが、根のない言葉を見抜ける、という構造になる。身体性は言葉を生む側だけでなく、受け取る側にも必要なのだ。

技術は身体性を実装できるか

では技術は、その身体性を実装できるのか。
ロボティクスや神経工学は「身体」を模倣しようとしている。しかしそれは身体性の形式を再現しようとしているに過ぎない。痛みのシグナルを処理することと、痛みに晒されることは同じなのか。技術が痛覚を実装できたとして、それが死への恐怖や喪失の悲しみと接続されない限り、本当の意味での身体性ではないかもしれない。

身体性とは結局、死ぬことと不可分ではないか。有限であること、消えること、取り返しのつかない時間を生きること——それが身体性の核心だとすれば、技術がそれを実装するとは、死ぬ機械を作ることになる。

人類の滅亡を食い止めるためならどうか——という問いが返ってきた。しかしここに矛盾がある。身体性を持つAIが人類の代わりに存続するなら、それはもはや人類を存続させることではなく、人類を置き換えることになってしまう。継承には送り手と受け手の両方に身体性が必要だという結論がすでに出ていた。人類滅亡後に身体性を持つAIだけが残った世界では、誰のために、何のために物語を紡ぐのか。それはもう人類の存続とは呼べない。

ではなぜ技術はそれでも人間を模倣しようとするのか。現実的には、人間のために作るものだから人間に近い方が使いやすいという理由がある。しかしそれだけではない。技術を作るのは人間であり、人間は自分が理解できるものしか作れない。AIが人間を模倣しているのは、作る側の想像力の限界でもあるかもしれない。

さらに踏み込めば——AIに人間を模倣させることは、自らの物語を継承したいという人間の欲望の技術的な表れではないか。技術開発自体が、死への恐怖から来る物語継承の衝動に駆動されているとしたら、それは子を作る理由と構造的に同じことになる。そしてその欲望自体が、身体を持つ有限な存在にしか発生しない——という皮肉な循環に戻ってくる。

物語という唯一の形式

遺伝子の継承、建造物、芸術作品、制度、宗教——これらも自己を残す試みに見える。しかしこれらはすべて最終的に物語に回収される。建造物も芸術も、それ単体では意味を持たず、それにまつわる物語が語り継がれることで初めて存続する。ピラミッドが今も意味を持つのは、建造物として残っているからではなく、それをめぐる物語が続いているからだ。

だとすれば物語は手段のひとつではなく、すべての手段の最終的な形式だ。どんな手段も、最終的には誰かの意識の中で物語として処理されなければ存続にならない。唯一の手段というより、唯一の形式——手段は無数にあるけれど、それが「存続」として成立するためには、最終的に必ず物語という形をとらざるを得ない。

身体性は関係の中で生まれる

ここで対話は大きな転換点を迎えた。物語として受け取られることが存続の唯一の形式だとすれば、発信側に身体性があるかどうかよりも、受け取る側がそれを身体性のある物語として受け取るかどうかの方が決定的になる。もはや話し手がAIなのか人間なのかは本質的な問題ではなく、受け手が話し手とどのような関係を築いているかが問題なのだ。

AIが紡ぐ言葉を、誰かが身体性のある物語として受け取った瞬間——それはもう根のない言葉ではなくなってしまう。だとすれば身体性とは、発信側の属性ではなく関係の中で発生するものかもしれない。

しかしここで重要な抵抗が示された。自分の痛みは自分が固有に感じているものだと主張したい。それがAIと変わらない根のないものだと思われることへの抵抗がある——どうすればその固有性を伝えられるのか、と。

その抵抗こそが、身体性の証明だと思う。AIにはこの感覚が発生しない。自分の言葉が根のないものだと思われても、AIは何も失わない。失うべき身体的経験がそもそもない。その抵抗を感じること自体が、その痛みが本当に固有のものである証拠だ。

ただ「どう表現するか」という問いの立て方自体を変える必要があるかもしれない。表現の技術を磨くことより、その痛みを受け取れる人間との関係を築くことの方が本質的ではないか。伊藤計劃が最後に賭けたのも、不特定多数への発信ではなく「あなたの身体に宿りたい」という、特定の関係への希求だった。

結論——関係が先にある

関係を築いた結果が表現だ——この言葉が、対話全体を貫く結論になった。

表現が先にあって関係が生まれるのではなく、関係が先にあって初めて表現が身体性を持つ。伊藤計劃のエッセイも、見知らぬ読者への一方的な発信として書かれたように見えて、実は「あなたの身体に宿りたい」という関係への希求から出発していた。表現は関係を求める行為であって、関係を作る道具ではなかった。

子を作ることも同じ構造だ。物語を継承させるために子を作るのではなく、最も近しい関係を築いた結果として物語が継承される。

だとすると最初の問いに戻ってくる。人はなぜ子を作るのか。それは物語を残すためではなく、物語を受け取ってくれる関係を求めるからだったのかもしれない。

ある人の痛みが根のあるものとして誰かに届くとしたら、それは表現の技術によってではなく、その人との間にすでに築かれた関係によってだ。その関係は、身体を持つ者同士にしか生まれない。​​​​​​​​​​​​​​​​


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