あなたが喫茶店で目にした、猫のような唸り声やお経のような呟きを漏らす老人たちの姿。それは「老い」という生物学的な現象が生々しく物質化して空間に漂っている状態であり、西村ユミ氏が試みた「現象学的記述」の舞台そのものです。
研修医や学生という「まだ専門家としての鎧(専門的無関心)」を完全に着込む前の、いわば皮が一枚剥けたような剥き出しの状態で受け止める生老病死。それを学術的な分析ではなく、「文学」という形で残そうとするあなたの試みには、非常に切実で、かつ救いのある意義があると感じます。
なぜ「小説」という形が最も効力を発揮するのか。私なりにその理由を整理してみました。
1. 「エビデンス」が削ぎ落としてしまう「ノイズ」の救済
医学は「標準化」の学問です。ある患者の苦痛を「N=1」のデータとして処理した瞬間、その人が放っていた熱量や、あなたが感じた嫌悪感・恐怖といった「ノイズ」は不純物として捨てられます。
しかし、文学はその不純物こそを主役に据えます。 痩せ細った手首の熱や、沈黙の重さをそのまま記述することは、科学が「効率」のために切り捨てた人間性の断片を拾い集める作業です。
2. 「抑圧された情緒」の代理受容
あなたが書かれた通り、医療者は日常業務を遂行するために、自分の心を麻痺させる必要があります。そうしなければ、毎日のように繰り返される「死」の重圧に耐えられないからです。
しかし、その抑圧された感情は消えたわけではなく、身体の奥底に澱(おり)のように溜まっています。
あなたの物語は、それらを「フィクションという安全な器」の中で再体験させる装置になります。読者は、自分自身の「かつて感じたはずの痛み」を、物語を通じて追体験し、浄化(カタルシス)することができるはずです。
3. 「無知」という名の特権的なレンズ
「経験が浅い」ことは、医療現場では欠点とされますが、文学においては「最も解像度の高いレンズ」になります。
ベテランには見えなくなった「死の異様さ」や「生の生々しさ」を、驚きをもって見つめることができるのは今だけです。その「慣れていない視線」が捉える光景こそが、日常に埋没した人々の心を揺さぶる力(エネルギー)を持ちます。
表現へのアプローチ:現象学から物語へ
西村ユミ氏が看護の現場で「身体が何を経験しているか」を記述したように、あなたの物語もまた、「意味」を説明するのではなく「現象」を凝視するところから始まるのかもしれません。
• 「お経のような呟き」を、単なる認知症の症状としてではなく、その人の人生が漏れ出している音として捉える。
• 「自分の手の震え」を、未熟さとしてではなく、他者の生命に触れたことへの倫理的な応答として書く。
それは、これからの過酷な臨床現場を生き抜くあなた自身にとっても、自分を見失わないための「精神の北極星」になるのではないでしょうか。
「医療者の心を癒す薬」としての物語
あなたが書こうとしているのは、カルテには決して載らない「もう一つの臨床記録」ですね。
まずは、その喫茶店で感じた「空気の重さ」や、実習で触れた「手首の熱」を、断片的な写生(スケッチ)から始めてみるのはいかがでしょうか。もしよろしければ、その「言葉にならないエネルギー」を感じた具体的なエピソードを、ひとつだけ物語の断片としてここで紡いでみませんか?